障害者と感動レイプを真面目に考える
先日、24時間テレビの裏でNHKがやっていた番組がすごかった。
バリバラという番組で、「日本初の障害者のためのバラエティ番組」で真の意味のバリアフリーを目指すバラエティという番組らしい。
この日のテーマは「障害者と感動」。
「感動するな!笑ってくれ!」というコンセプトで始まったバリバラ。しかし、いまだ障害者のイメージは「感動する・勇気をもらえる」というものがほとんど。「なぜ世の中には、感動・頑張る障害者像があふれるのか?」その謎を徹底検証!スタジオでは「障害者を描くのに感動は必須か?」「チャリティー以外の番組に障害者が出演する方法は?」などのテーマを大討論!Twitterで視聴者ともつながり、みんなで「障害者の描き方」を考える。
すっごいブッ込んでいた。
裏番組は24時間テレビで障害者を感動の対象として持ち上げている真裏でこの番組である。
久しぶりにNHKすごいと思った。
番組の中で軸となっていたのはコメディアンでジャーナリストのステラ・ヤング氏のTEDでのスピーチ。
彼女のスピーチで一番突き刺さる「感動ポルノ」という単語。
障害者が頑張っている姿に感動させ、そしてそれをコンテンツとして健常者が消費するような社会を彼女を皮肉っています。
24時間テレビはまさに感動ポルノです。
24時間テレビの感動ポルノなんかやめて、パラリンピックを地上波で放送すればいいのに。
いつ始まっていつ終わってんのかよくわかんなくない?パラリンピック。— 東大路ジェリコ (@LovEJeRicO) 2016年8月26日
障害者だからという安易な同情が嫌い
僕はもともと、”障害者だから”という理由で、障害者を哀れんであげるという姿勢が大嫌いだ(子どもは除く)。
チャリティーイベントとかで大人の障害者が歌を歌ったり、ダンスを踊ったりしてお金を寄付してもらうとかいうイベントは生理的に受け付けない。
そういうのは大体、音程を外していたり、動きがバラバラだったりと目を覆いたくなるようなパフォーマンスが多い。
もちろん、頑張っているのはわかる。
ただ、人前でお金や感動を要求するようなパフォーマンスを見せるなら、それなりのクオリティーを示せと思ってしまう。
健常者がやったらブーイングものなのに、障害者だから上から目線でお金や感動を恵んであげる始末。
こじきと何が違うんだろうと思ってしまう。
障害とか関係なく素晴らしいものにはお金を注ぐ
僕は辻井伸行さんが大好きだ。
彼の演奏は毎回聞くたびに鳥肌が立つ。
特に辻井さんの「ラ・カンパネラ」はみなさんに是非聞いてもらいたい。
演奏が輝いていて、いつまでも聞ける。
初めて聞いた時は凄すぎて泣いてしまったレベル。
彼の演奏には障害なんて全く関係ない。
辻井さんの演奏に感動する時、「障害者だから」や「苦労を乗り越えたから」とかいう余計な感情はない。
ただ素晴らしい。
作品のクオリティーとして、世界最高峰だ。
僕は辻井さんのCDも買ったし、itunesにもかなりの曲が入っている。
障害なんて関係なく、比類なき努力でここまでの演奏をしてくださる彼に対して、お金を出し渋ることなんてできない。
ただただ、演奏が素晴らしすぎて素晴らしすぎて、一人の人として大好きだ。
辻井さんだけじゃない。
原宿のとあるアート展にふらっと入った時、とても素晴らしい絵があって、12000円したけれど衝動的に買ってしまったことがある。
買った後に作者について聞いたら、なんとその人は脳性麻痺の人だった。
でもそんなことは関係なく、絵が素晴らしかった。
障害者だからお金を払ったのではない、その人の絵の才能がすごかったからだ。
たとえその画家が健常者であっても同じ値段で買おうと思ったし、絵がよくなかったらびた一文も払わなかっただろう。
いいものはいい、悪いものは悪い。
そんな姿勢が僕は好きだ。
平等に扱うとはいえ、子どもの頃のケアは大事
ただ、ここで誤解してはいけないのは、障害者を小さいころから平等に扱えというのは無理な話がある。
幼少期はやっぱり多感だから、人よりハンディキャップを背負っている人に対して平等に扱ってしまうと挫折を味あわせかねない。
だから、障害者の子どもは監督者が十分にケアをし、努力に対してはなるべく褒めてあげる姿勢が大事だと思う。
(ただ、それをテレビなどで放映する姿勢は違う)
そして、彼らには大人になった時に、健常者とか障害者とか関係ないような平等な世界で暮らしてもらいたい。
真の意味でのバリアフリーではないだろうか。